かもめ日和

日々のことをつれづれと

なぜお茶の自主練をするのか

今日は午前中は一通り家事をしたあとは、お茶の自主練をした。

 

独身の頃からかれこれ25年ぐらい通っていたお茶の師匠が教室を長いことお休みされている。コロナ禍で一旦閉めましょうということになり、その間に師匠も体調を崩されてしまい、なし崩し的に教室がお休み状態となっている。

 

最後に師匠に会った日は、「これが最後のお稽古」という意識なく、いつものように雑談をしていっぱい笑って「じゃあまた来週」とかなんとか言いながら、玄関先でお互いにペコペコしながら玄関の引き戸を閉めた。

 

いつもこれが最後だと思って、その時その瞬間を大切にしようという気持ちが、お茶でいう「一期一会」なのかなと思うけど、師匠とお茶を点てながら過ごしたあのひとときはずっと続くと思っていたんだよな~。もっと大切に過ごせていたら…。

 

まだ希望は捨ててない。いつ再開しますとお声がかかってもいいように、家にあるなけなしの道具を出して、ノート片手にお点前の自主練をしている。

 

みくのしんカレーを作るぞと

みくのしんカレー。ご存知だろうか。

オモコロが好きで、動画オモコロチャンネルはチャンネル登録をして、いつも楽しみに観てます。

そのオモコロの記事や動画で、みくのしんさんがお母様から受け継いだカレーのレシピ紹介している回を観て以来、我が家ではみくのしんカレーが大人気で、時々ムショーに食べたくなって、何回も作りました。

簡単に作れて、長時間煮込まなくても大丈夫なのにもかかわらず、本格的なお味でとてもとても美味しいのです。

今日も作ろう!ということで、KALDIココナツミルクとトマト缶、スーパーでエビとイカを買ってきました。

作る前に動画でおさらいしとこう。

https://youtu.be/eyfPyKkRxv4?si=Ush3PiXrVGqbmEuJ

病院の売店でプリンを吟味した日

母が検査入院していて、今日はその面会に行ってきた。食欲がわかなくて、おかゆも殆ど残してしまうそうだ。いつも腹から声を出すタイプの母が息苦しそうにしている。

 

プリンかヨーグルトなら食べれそうなので許可して〜と本人が先生に直談判したそうで、病室に着くなり「売店で買ってきて」と頼まれた。

 

好みのプリンのタイプというか、今食べたいのは固いのか柔らかいのかどんな気分なのかを聞いたら、プッチンプリンみたい固さは嫌だと言う。

 

エレベーターでロビー階に降りて売店に行き、限られた品揃えの中から好みに近いものをじっくり吟味した。

プッチンプリン、焼きプリンや牛乳プリン、柔らかいプリンもある。杏仁豆腐やマンゴープリンはちょっと違うかな。どちらかというと消去法で決めていった。中でも少し割高だったが、パティシエ監修のプリンをチョイスして買っていった。

 

病室に戻り、残してもいいからとりあえず一口食べてみたら…とスプーンとともに渡したら、ゆっくりとだけど完食してくれた。

これが呼び水となって食欲がわいてくれるといいのだけど…。

明日は何を持っていこうかな。

 

 

最近読んだ本、これから読む本

今日は夫と息子とパスタを食べに出かけて、帰りに書店に寄った。

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今は若林正恭著のエッセイ「ナナメの夕暮れ」を読んでいるところなので、新たにはまだ買わなくてもいいかなと思いつつ店内をぶらぶらしていたのだが、話題の本がディスプレーされているコーナーで小川洋子著「ことり」が目に入った。慎ましやかな人生を描いた優しく切ない物語のようだ。

 

息子は安部公房著の「無関係な死・時の崖」を購入。中でも「なわ」の一部がデスストランディングというゲームで引用されてるとのことだったので、後で読ませてもらった。すごく怖い夢を見ているのに途中で読むのをやめられない感じ。他の作品も読んでみたくなった。

 

それとこれは最近読んだ漫画なのだが、「カラオケ行こ!」の続編の「ファミレス行こ!」。娘のおすすめ。物語がよく出来ていて、こことここが繋がってるの?と思わずうなるほど。キャラクターも生き生きと魅力的。下巻が楽しみ。こちらも映画化するのかな?

 

年賀状じまいを考える土曜日の朝

年賀状ってどうしてますか?

まず本音から言うと、来年あたり年賀状じまいをしようかなと考えています。

実際、今年届いた年賀状の中には「今年で年賀状を卒業いたします」と一言添えてある年賀状が5~6件はあり、はっきりと宣言してくれるのはありがたかったので、年賀状をやめるなら宣言しようと思っています。

 

年賀状って意味あるのかなと

年賀状って年始の挨拶とはいえ、形骸化っていうんですかね、これ意味あるのかな~と最近特に思います。

実際にお付き合いのある人はLINEでつながっているし、そういった人とは年初めのやりとりのときに挨拶をしたり、挨拶しない空気であればしないし…という感じ。

 

長い年賀状生活のなかで一番面倒だなと思ったこと

ある年いつものように年賀状を出したら返信がなかったので、次の年は出さなくていいのねと年賀状を出さないでいると、今度は向こうから送られてくる。急いで年賀状を出して…次の年も出すと、今度は向こうから遅れて返信が来て…という、年をまたいだやりとりがあったりする。

年賀はがきが足りなくなって元旦からコンビニに走ったり、逆に多めに準備しておいて余らせてしまったり。地味に面倒ではありますね。

これまでは風物詩だと思ってやっていたけれど、このところのコロナ禍でお付き合いに対する考え方も移ろって、その中でも年賀状の意味を考えてしまう。

 

それでも年賀状を出した意味とは

それでもなんで今年はいつものように年賀状を出したのかというと、年末の習慣というのもあるけれど、中には年賀状でしかやりとりしない人が何人かいて、年賀状をやめるとその人とも完全に縁がきれてしまうのは寂しい…というところもあるかも。

例えば、20年以上も前に子供たちを出産した病院で連絡先を交換して以来会ってないけれど、年1回、あっという間だねえなどと近況を報告しあいながらなんとなく続いている人や、学生時代のの同級生など。それはそれでほんわかとあったかい気持ちになったりもするわけで。

 

来年の年賀状どうしよう

そういうこともあって、とても迷っています。

ハガキや切手代が来年の秋には現行の63円から85円に値上げになるそうで、
(手紙に至っては84円から110円に値上げでこれも大きい)

これも年賀状離れに拍車がかかりそうだよね~。

逆に、昭和の習慣が淘汰されていく中で、年賀状をあえて続け、年賀状を出す人がいなくなるまで続けるのも悪くないかも?

 

 

足の指でグーチョキパーをがんばった日

今日は朝から鍼へ。

頭の先からつま先まで、3時間かけて、針をさされまくりました。同世代の同性の先生ということもあり、体調や身体のこと、ずっといろんな話を聴いたりしながら、もっと自分の身体のことに気を配っていかないとな〜と思いました。

 

足の指でグーチョキパーしてみて!と言われて、トライしてみたところ、やってるつもりでも全然できてなくてショック!

先生のお手本だとグーなんて足指の関節からキレイに折れていたし、パーはすべての指が離れてた。

私のパーは一生懸命広げてるつもりでも、実際見たら人差し指と中指、薬指がくっついている状態。

お風呂につかっているときにでも練習してみるといいよとのことでした。半年も続けていれば出来るようになるらしい。足の指が整うと、しっかりと立てるようになり、姿勢も整うのでいいらしい。

せっかくいいことを教えてもらったので、ちゃんと実践しないとですね。